【広島】原爆被爆者のために家を建設したフロイド・シュモー氏とは?広島市江波にあるシュモーハウスの展示が2019年リニューアル

フロイド・シュモー氏とは?広島市江波にあるシュモーハウスが2019年リニューアル
[voice icon="https://dandyhiroshimasanseikatu.com/wp-content/uploads/2019/08/profile_01.png" alt="安芸守" width="300" height="300" class="aligncenter size-full wp-image-4735" name="安芸守" type="l line"]新時代を迎える日本だからこそ平和について考えることが大事だと思う安芸守です![/voice]

広島と長崎に原子爆弾が投下され半世紀以上が経ちました。

被爆者たちは高齢化の一途を辿り生き証人の生の証言を聞くことが難しくなり2019年5月には平成の時代が終わり新しい時代が幕を明けます。




原爆の日について知る

1945年(昭和20年)8月6日に広島、同年8月9日には長崎に原子爆弾がアメリカによって投下されました。

人類史上初、世界唯一の被爆国として核兵器の廃絶と平和向けての発信を未来永劫していく義務があります。

そしてその中心を担うのが被爆地であり平和行政として機能する広島と長崎だとわたしは思うのです。

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詳しくことは別記事で紹介してますので見てね♪

さて広島市中心部にある原爆ドーム・平和記念資料館から南へ約3.6㎞進んだ広島県広島市中区江波に

シュモーハウス

と呼ばれる広島平和記念資料館付属の展示施設があります。

平和活動家であるフロイド・シュモーを称え、その名にちなんで名付けられました。

平和活動家だった故・フロイド・シュモー氏とは?

下の写真が生前のフロイド・シュモ―氏↓

フロイド・シュモ―氏とはアメリカ出身の森林学者・自然学者・著作家でありクエーカー教徒の平和活動家でもあります。

2度の世界大戦で混迷を極めた20世紀で平和主義を貫き平和活動を通じて戦争で苦しむ多くの方への援助、復興支援を行ってくれました。

フロイド・シュモー氏の経歴

1895年9月21日にアメリカ合衆国カンザス州に住む代々クエーカー教徒のシュモー家に5人兄弟2番目として誕生。彼自身は6代目だったそうです。

シュモー氏の実家は農場を営んでおりその農場と自然豊かな環境、平和を愛する両親の元で平和を愛し自然を愛する「平和主義者」として成長しました。

1914(~1918)年、19歳の時に第1次世界大戦が勃発するが自身のポリシーである「平和を愛する思想」から良心的兵役拒否で兵役を拒否。

拒否した後はポーランドの難民へ食料・衣料などの物資の配送、赤十字としてフランスで救急車の運転手などの活動を行ったそうです。

戦争が終結した後はアメリカに戻り自然学者、ワシントン大学の森林学講師として活動していました。

平和活動家としての活動

1939(~1945)年、44歳の時に第2次世界大戦が勃発するとドイツの迫害の標的とされたユダヤ人の避難支援や食料や衣類などの物資援助をはじめました。

1941年に真珠湾攻撃によって大東亜戦争も勃発。その結果、収容された日系人の支援に専念するために翌年1942年に大学の講師を辞職。

戦時中は強制収容所を度々訪問、戦後もシアトルに復帰してきた日系人に手を差し伸べ支援を行ったそうです。

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1950年の朝鮮戦争でも被災者や難民への支援を行いその後もアフリカの難民や中東などへの援助も実施。

晩年は愛するシアトルで執筆活動を行う傍ら平和運動への支持も続け2001年4月20日に105歳で他界しました。

シュモー氏はアメリカ大統領に喧嘩を売るほど原爆投下に激怒

シュモ―氏は広島に原爆が投下されたことを知った時、ドイツが行ったユダヤ人の大量虐殺に匹敵する蛮行であると怒り悲しんだそうです。

そして原爆投下を決めた当時のアメリカ大統領トルーマンに抗議電報を打ち、被災者のための家屋建設支援を当日内に決断してくれました。

寄付を募りながらアメリカ各地を回り、1948年に初来日・初来広し惨状を知り一緒に来広した数名のアメリカ人と日本人ボランティアと共に家造りに着手。

1948~1953年の5年間で計3度広島を訪問し市内に21戸の「広島の家」を建ててくれました。

復興と再開発によって唯一現存する「広島の家」は1952年に集会所として建設されたものでそれが現在の

シュモーハウス

として保存されています。

また帰国後、シュモー氏がシアトル市に働きかけたことがシアトル・ピース・パークが建設につながったそうで公園にはサダコ像も一緒に置かれているそうです。

2019年にシュモーハウスの展示がリニューアル

2019年3月8日の中国新聞朝刊にて展示がリニューアルされたと掲載されていました。

何でもここ数年にわたって当時の住民や建築に関わった方々が次々とゆかりの品を原爆資料館に寄付したことから実現。

追加された展示資料は作業風景を収めた写真がカラーで12枚、他にも建築図面などの資料もあり合計27点を展示。

またこの27点以外にも資料があるようで今月末までにさらに展示品が増えるようです。

当時江波で暮らしていて資料を寄贈した内山さんは

住んでいた人たちはシュモーさんに親しみを感じていた。当時に思いをはせてほしい。

引用:中國新聞朝刊紙面より

とコメントをよせています。

今日の記事:平和を作るのは今を生きるわたしたちだということを忘れてはならない

いかがでしたでしょうか。

シュモー氏はその行動力から「実力行使を伴った平和主義」として活動しており殺害予告を受けたりもしたそうです。

それでも自分の信念を貫き傷ついた人達のために尽力してくれました、広島県人として感謝しかありません。

平和にしたいなら願うのではなく行動することだとシュモー氏の生い立ちを知って強くそう思いました。

シュモー氏の足跡を今に伝える施設「シュモーハウス」。

中心部から少し距離がありますが広島に訪問された際にはぜひ足を運んでほしいなって思いますね。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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