
表題にもありますように東京大空襲は1回だけでなく何回も繰り返しそして執拗に行われていたことはご存知でしょうか。
その裏には日本とアメリカの必死の攻防がありました。
今日の記事ではその辺について記事にしようと思います。
【目次】気になる項目をチェックしてみてね♪
東京への空襲が行われた日
アメリカによる東京への空襲が日本に行われたのは1942年(昭和17年)4月18日ことでした。
これは1941年(昭和16年)12月8日にマレー作戦と真珠湾攻撃によって大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦してから約4カ月後のことです。
被害規模はそれほど大きくはなかったようですがそれでもこの空襲で39名の命が奪われました。
しかしその後しばらくは東京への空襲が途絶えていたそうです。
空襲が行われなかったのはアメリカが手心を加えたわけではなく、距離的な問題で攻撃ができなかったからでした。
アメリカ軍による空襲計画
アメリカ軍は日本全土を攻撃範囲にするための作戦を考えました。
その作戦こそがマリアナ諸島を日本から奪取して前線基地となる軍事飛行場の建設をするというもの。
マリアナ諸島の島々と日本の位置は下記の通り
- 青:日本
- 橙:グアム島
- 紫:テニアン島
- 黄:サイパン島
真珠湾攻撃による開戦直後は優勢だった日本。
しかし軍備を整えさらに国力・物資ともに上回るアメリカに圧倒・巻き返しを受けて次第に劣勢になり戦局は悪化。
1942年以降空襲が途絶えている間にサイパン島、テニアン島、グアムなどのマリアナ諸島以下周辺はアメリカ軍に奪取され対日空襲のためのアメリカ前線基地を建設。
物資も蓄えを地の利を得たアメリカ軍は日本全土を標的にした空襲が可能となりました。
そしてこの前線基地で爆撃機B-29の開発・生産も進められついに1944年末から首都・東京を中心に大規模な空襲を全国で行うようになります。
広島・長崎の両原爆を積んだB-29もこのマリアナ諸島内・テニアン島から離陸しています。
東京への空襲は合計で3桁!?
軍備を整えたアメリカが東京への空襲を再開したのは1944年(昭和19年)11月24日。
1945年(昭和20年)8月15日に日本がポツダム宣言と言われる無条件降伏を受け入れ敗戦・終戦を迎えるまでどれだけ空襲を受けたかご存知ですか?
よく知らない方も多いと思いますが空襲回数は106回と言われています。
東京の空襲といえば1945年3月10日に行われた東京大空襲(下町空襲)を思い浮かべるでしょう。
しかし現実は106回もの空襲があり、東京大空襲もそのうちの1回に過ぎません。
東京大空襲について
東京への106回の空襲のうち5回は特に大規模な攻撃がありました。
その5回の大規模空襲のうち一夜にして10万以上の死者数を出したのが1945年3月10日の空襲。
ご存知「東京大空襲(下町空襲)」です。
攻撃目標は…下町。
現在の江東区、墨田区、台東区、中央区と下町が中心でした。
東京大空襲攻撃目標の目安は下記のマップの通り。
- 第1目標(黄):江東区
- 第2目標(黒):墨田区
- 第3目標(紫):台東区
- 第4目標(青):中央区
これらの地点が重点的に攻撃され猛烈な季節風のあおりをうけて下町を中心に火が燃え広がったことで甚大な被害になりました。
アメリカ軍の戦術
この時の空襲でアメリカ軍は
- 対日本用に導入された焼夷弾の使用(後述説明)
- 低空飛行による爆撃
- 夜間攻撃(新戦術)
これら多くの戦術を導入したそうです。
また先述の猛烈な季節風が吹くことも天気予測で事前に知っていたとされ特に強風が吹く3月10日を攻撃日に選んだとも言われています。
また日本側も
- レーダー探知不良
- 誤認による空襲警報の遅延
- 季節風による日本軍迎撃部隊の出撃不能
など対応が後手に回ったことも甚大な被害となった要因です。
被害者数と被害規模

隅田川などの主要河川では溺死者、3月の寒さによる凍死者などの遺体で埋めつくされ死亡者数はたった一夜で8万~10万人以上。
負傷者は4万~11万人以上で行方不明者は数万人規模と言われ、東京の東側半分、当時の東京35区(現:23区)の1/3を焼失しました。
単独空襲の被害者でいえば世界単位でも史上最大の規模と言われています。
またその後も執拗なアメリカの空襲は続き結果1945年3月~5月の約3ヶ月の間に東京市街地の半分である50%が焼失・焦土と化し戦災孤児が大量に生まれました。
空襲の威力を格段に上昇させた焼夷弾とは
先程も登場しましたがあなたは焼夷弾という言葉を聞いたことがありますか?
焼夷弾とは1つの爆弾に約38発の小型爆弾を内蔵し投下すると上空で分裂し爆弾に内蔵された約38発の小型爆弾が分散して降ってくる爆弾のこと。
簡単にいえば大きな1つの爆弾が38個の小型爆弾となって一斉に地上へ降り注ぐということです。
投下され地上・建物に衝突すると数秒間燃えたのち、高さ30メートルの高さまで飛び散ると言われる多数の火の玉となって四方八方に爆散、周囲も巻き込んでさらに炎上します。
つまり1つの小型爆弾でその周囲をさらに炎上させるというもの。
そのため日本のように炎が燃え広がりやすい木造建築が密集してる地区には非常に効果的な攻撃方法でした。
動画も貼っているのでどんなものかその目で確認して見て下さい。
爆弾が雨あられのように降ってくることから「火の雨」とも称されています。
当時日本への空襲に用いられたのはM69焼夷弾またはM47焼夷弾とされこの爆弾群を併用していたとも言われている。
また1945年7月の青森大空襲では更に改良・発展させた焼夷弾をが実験と称して約8300本投下。青森は焦土と化している。
最後に
一人当たり10個やそれ以上の爆弾が雨のように降り注ぐ…これ程恐ろしいことはありません。
運よく生き残ったとしても火事によって家財道具一切を失ったり、親兄弟・親族を失って戦災孤児になったり赤紙で徴兵され頼れる旦那や父親いない家も多かったでしょう。
そのような中で次の空襲に怯えながら生活するなんてとても耐えられませんし終戦を迎え空襲がない日々になったり何を思ったのでしょうか。
平和に暮らせること、昼夜問わず安心して寝れることがいかに幸せなのかを身に染みて感じることができます。
この平和を未来永劫繋げていく努力を私たちは怠ってはいけません。
最後までお読みいただきありがとうございます。