英雄が跋扈する戦国時代!徳川家康の誕生年から1615年の大阪夏の陣の間で生まれた戦国武将とライバル達の年齢時系列まとめ

戦国武将年表と年齢一覧
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毛利元就が好きです。

こんにちは、安芸守です。前の記事で最初の戦国武将と言われる北条早雲~戦国時代を終結させた徳川家康までの戦国武将を紹介させて頂きました。

まずは下の記事より前編をご覧下さい

群雄割拠の戦国時代!有名な戦国武将の生まれ年と同時期に生きたライバルの年齢を時系列でまとめてみたよ♪

2019.09.24

今回は後編として徳川家康が誕生した1544年~大坂夏の陣の1615年の間で生まれた戦国武将と有名な出来事が起きた時の戦国武将の年齢をまとめてみました。

暇つぶし程度にご覧頂きぜひ歴史に興味をもって頂ければ幸いです。




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1544年(天文13年)

竹中半兵衛

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出典:Wikipedia

豊臣秀吉に仕えた名参謀。一時期黒田官兵衛と共に秀吉に仕え「両兵衛」ともうたわれていました。

しかし織田信長に対して荒木村重が謀反を起こした際に説得に行った黒田官兵衛が幽閉され、官兵衛も裏切ったと勘違いした信長は官兵衛の子で人質だった松寿丸(後の黒田長政)を殺すよう命令するが官兵衛が裏切ってないと確信していた半兵衛は奇策を用いて命をかけて松寿丸を守った。

その後陣中にて病を患い官兵衛帰還を見届けることができないまま1579年、35歳の若さで死去しました。

1544年(天文13年)時点の戦国武将年齢一覧

斎藤道三 50歳
毛利元就 47歳
北条氏康 29歳
今川義元 25歳
武田信玄 23歳
毛利隆元 21歳
明智光秀 16歳
上杉謙信・吉川元春 14歳
小早川隆景 11歳
織田信長 10歳
島津義弘 9歳
佐々成政 8歳
豊臣秀吉 7歳
北条氏政・前田利家・本多正信 6歳
長宗我部元親 5歳
徳川家康 1歳
竹中半兵衛 誕生

1545年(天文14年)

山内一豊

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出典:Wikipedia

父は元々岩倉織田に仕えていたが、織田信長と対立し結果岩倉城は落城し自刃した。

一豊は諸国を放浪した後に信長に仕えて秀吉の与力となりその後は秀吉がなくなるまで仕えた。秀吉死後は徳川家康に与して東軍として関ヶ原の戦いに参戦し勝利。

小山評定などのその貢献度を評価され長宗我部家の旧領であった土佐20万石を拝領し土佐国主となった。妻は黄金10両で馬を購入させたなどの逸話が残り内助の功で知られる千代(見性院)。

1545年(天文14年)時点の戦国武将年齢一覧

斎藤道三 51歳
毛利元就 48歳
北条氏康 30歳
今川義元 26歳
武田信玄 24歳
毛利隆元 22歳
明智光秀 17歳
上杉謙信・吉川元春 15歳
小早川隆景 12歳
織田信長 11歳
島津義弘 10歳
佐々成政 9歳
豊臣秀吉 8歳
北条氏政・前田利家・本多正信 7歳
長宗我部元親 6歳
徳川家康 2歳
竹中半兵衛 1歳
山内一豊 誕生

1546年(天文15年)

武田勝頼

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出典:Wikipedia

元々は側室の子で四男だったことから家督相続権がなかったが義信の廃嫡など様々な要因が重なり後継者として指名されました。

そして1573年に西上作戦の陣中でなくなった武田信玄の跡を継いで27歳の時に武田家当主となり武田家を率いました。

武勇に優れた武将として評価されていたが長篠の戦いで織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に信玄時代より仕えていた多くの重臣たちを失い敗戦したことで勢力が後退。

その後も一定の勢力は保っていたものの甲州征伐によって執拗に責められ、譜代の重臣たちの裏切りにもあって1582年(天正10年)に天目山の戦いで敗れ戦死。これにより甲斐武田家は滅亡。

信玄が死去してから9年後のことでした。

黒田官兵衛

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出典:Wikipedia

戦国三英傑である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3名に一目置かれた名将。

秀吉が3日かけて考え抜いた策を瞬時に考え出すなど知恵が回り長らく秀吉の下で軍師として使えましたがその知恵の回り具合から天下人として邁進する秀吉に警戒され次第に距離を置かれるようになりました。

小早川隆景とは敵味方とはいえ中国攻めの際からの顔なじみであり、隆景は官兵衛に「良い策が浮かんだ時こそ吟味するように」とアドバイスしたと言われ官兵衛の子・長政にも様々なアドバイスをしたと言われるなど非常に懇意な仲だったとされる。

1597年に隆景が死去した際は「この国に賢人はいなくなった」と嘆いたと言われています。

1546年(天文15年)時点の戦国武将年齢一覧

斎藤道三 52歳
毛利元就 49歳
北条氏康 31歳
今川義元 27歳
武田信玄 25歳
毛利隆元 23歳
明智光秀 18歳
上杉謙信・吉川元春 16歳
小早川隆景 13歳
織田信長 12歳
島津義弘 11歳
佐々成政 10歳
豊臣秀吉 9歳
北条氏政・前田利家・本多正信 8歳
長宗我部元親 7歳
徳川家康 3歳
竹中半兵衛 2歳
山内一豊 1歳
武田勝頼・黒田官兵衛 誕生

1547年(天文16年)

真田昌幸

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出典:Wikipedia

武田信玄に仕えた真田幸隆の3男。元々は3男のため家督相続権はなく武藤家に養子に出され武藤喜兵衛として、信玄に仕え三方ヶ原の戦いなど多くの戦に参戦した。

しかし長篠の戦いで2人の兄であった真田信綱・昌輝が戦死したため真田家に戻り真田昌幸と名乗って真田家の家督を継いだ。

その後も信玄に仕え信玄亡き後は子の勝頼に仕えるも織田信長の甲州征伐によって勝頼は戦死し武田家は滅亡。滅亡後は織田家の軍門に下るも3か月後に本能寺の変で信長が横死し再び独立した。

その後は豊臣秀吉に仕えて天下取りに協力。秀吉死去後ははじめ家康に与するも途中で石田三成に与して徳川秀忠率いる徳川本隊を上田城にて足止めし、折からの長雨もあって関ヶ原の戦いへの遅参を成功させた。

しかし予想に反して関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍が勝利し三成は切腹。

東軍に与していた長男・信之と信之の義父である徳川四天王の1人本多忠勝の命乞いもあって死罪は免れるも領地と兵すべてを奪われ次男の真田幸村と共に九度山に幽閉され関ケ原の戦いから11年後、大阪冬の陣が勃発する3年前の1611年に64歳で死去した。

昌幸の想いは次男・幸村に受け継がれ幸村は大阪冬の陣・夏の陣に参陣することとなります。

1547年(天文16年)時点の戦国武将年齢一覧

斎藤道三 53歳
毛利元就 50歳
北条氏康 32歳
今川義元 28歳
武田信玄 26歳
毛利隆元 24歳
明智光秀 19歳
上杉謙信・吉川元春 17歳
小早川隆景 14歳
織田信長 13歳
島津義弘 12歳
佐々成政 11歳
豊臣秀吉 10歳
北条氏政・前田利家・本多正信 9歳
長宗我部元親 8歳
徳川家康 4歳
竹中半兵衛 3歳
山内一豊 2歳
武田勝頼・黒田官兵衛 1歳
真田昌幸 誕生

1548年(天文17年)

榊原康政

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出典:Wikipedia

徳川四天王の1人であり同じく四天王の本多忠勝とは同級生で家康の天下稼業を支えた。

生涯戦で手傷を負ったことのない本多忠勝には武勇では負けるが指揮官としては一流でその能力は本多忠勝を上回り井伊直政に匹敵するとも言われ、行政能力にも長けていることから弱点という弱点が存在しないオールマイティな武将です。

本多忠勝

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出典:Wikipedia

徳川四天王の1人であり同じく四天王の1人であった榊原康政とは同級生で主君・家康に仕え終生仕え活躍した。

生涯参陣した戦で手傷を負ったことのない勇猛果敢で武勇誉れな猛将。

内政手腕にも長けており関ケ原の戦いにて桑名藩を拝領した際は藩体制を確保するために町割りや城の修繕など努め桑名藩創成の名君ともいわれています。

1610年に死去したが1603年に江戸幕府が開いたころから徳川家中では本多正純などの文治派の台頭し忠勝自身も1604年頃から病にかかりやすくなった頃から晩年期は中枢から遠ざかっていたそうです。

1548年(天文17年)時点の戦国武将年齢一覧

斎藤道三 54歳
毛利元就 51歳
北条氏康 33歳
今川義元 29歳
武田信玄 27歳
毛利隆元 25歳
明智光秀 20歳
上杉謙信・吉川元春 18歳
小早川隆景 15歳
織田信長 14歳
島津義弘 13歳
佐々成政 12歳
豊臣秀吉 11歳
北条氏政・前田利家・本多正信 10歳
長宗我部元親 9歳
徳川家康 5歳
竹中半兵衛 4歳
山内一豊 3歳
武田勝頼・黒田官兵衛 2歳
真田昌幸 1歳
榊原康政・本田忠勝 誕生




1553年(天文22年)

毛利輝元

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出典:Wikipedia

安芸の国の戦国大名・毛利隆元の長男。祖父は一時代で中国地方を制覇したとされる知将・毛利元就。

父である隆元が40歳という若さで急死したため、11歳で毛利家当主となる。しかし若年のため祖父の毛利元就が後見となり実権を握っていた。

しかし元就自身は、隆元死後直後は輝元との二頭政治で輝元を補佐し徐々に輝元に権限委譲して隠居するつもりであったが輝元が頑なに拒んだため、元就が死去するまでこの体制が維持されることになったそうです。

元就死後は叔父の吉川元春・小早川隆景が補佐し、領国運営にまい進していきます。

その後は、尾張の織田信長との対立、本能寺の変後は豊臣秀吉と親交を深め五大老に任命されるまでの信頼を得ます。しかし「中央の争いに参加してはならない。」という小早川隆景の遺言を破って、関ケ原の戦いに西軍として参加し敗退。

吉川元春の3男・広家の必死の助命嘆願の末死罪は免れるも、安芸を中心とした山陽・山陰8か国の約120万石から周防・長門2ヶ国の約29万石に大減俸され祖父・元就が築いた旧領をほぼ全て失う結果となりました。

周防・長門2ヶ国の約29万石に大減俸・関ヶ原の戦いでの敗戦などもあり、長男の秀就に家督譲っていたこともあり初代・長州藩主は秀就とされ輝元は藩祖という位置になっています。

しかし形式に家督を譲っただけであり、実質的には輝元が実権を握った二頭政治だったようです。

1553年(天文22年)時点の戦国武将年齢一覧

斎藤道三 59歳(※3年後の1556年に長良川の戦いで討ち死(享年62歳)
毛利元就 56歳
北条氏康 38歳
今川義元 34歳
武田信玄 32歳
毛利隆元 30歳
明智光秀 25歳
上杉謙信・吉川元春 23歳
小早川隆景 20歳
織田信長 19歳
島津義弘 18歳
佐々成政 17歳
豊臣秀吉 16歳
北条氏政・前田利家・本多正信 15歳
長宗我部元親 14歳
徳川家康 10歳
竹中半兵衛 9歳
山内一豊 8歳
武田勝頼・黒田官兵衛 7歳
真田昌幸 6歳
榊原康政・本田忠勝 5歳
毛利輝元 誕生

1559年(永禄2年)

直江兼続

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出典:Wikipedia

愛という文字を兜に掲げていたことで有名で「義」を重んじたとされる戦国武将。

上杉景勝の家臣で懐刀ともいうべき人物。

石田三成とは非常に親しい関係を築いたようです。上杉景勝を終生支え、関ヶ原の戦いでは盟友・石田三成を助け西軍に与するも敗戦し石田三成は死罪。

敗退後は景勝とともに家康に謝罪し死罪は免れるも秀吉から拝領した会津120万石から米沢30万石に大減俸させられる。しかし家臣をリストラさせず経済手腕などを発揮して領国安定の為に尽力した。

1559年(永禄2年)時点の戦国武将年齢一覧

毛利元就 62歳
北条氏康 44歳
今川義元 40歳
武田信玄 38歳
毛利隆元 36歳
明智光秀 31歳
上杉謙信・吉川元春 29歳
小早川隆景 26歳
織田信長 25歳
島津義弘 24歳
佐々成政 23歳
豊臣秀吉 22歳
北条氏政・前田利家・本多正信 21歳
長宗我部元親 20歳
徳川家康 16歳
竹中半兵衛 15歳
山内一豊 14歳
武田勝頼・黒田官兵衛 13歳
真田昌幸 12歳
榊原康政・本田忠勝 11歳
毛利輝元 6歳
直江兼続 誕生




1560年/桶狭間の戦い

石田三成

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出典:Wikipedia

豊臣秀吉の家臣で佐和山城主。豊臣家の奉行・秀吉死後は五奉行の1人として活躍した。

秀吉が中国攻めの総司令官として毛利を攻めてはじめた頃には既に秀吉に仕えて従軍していたようです。

豊臣家臣団の中で三成が頭角を表すのは、信長が本能寺の変で死去し秀吉が後継者として天下統一を目指し始めた頃からです。

その後は奉行として秀吉の天下統一事業を支え続けました。しかし秀吉が死去すると福島正則・加藤清正といった武断派と三成など奉行を中心とした文治派が対立を深めます。

その間に立って仲裁を図っていた前田利家も死去すると、対立は激化しその争いに漬け込まれ徳川家康の台頭を許るし関ヶ原の戦いにて家康に敗れて死罪となった。

1560年(永禄3年)時点の戦国武将年齢一覧

毛利元就 63歳
北条氏康 45歳
今川義元 桶狭間の戦いで討ち死(41歳)
武田信玄 39歳
毛利隆元 37歳
明智光秀 32歳
上杉謙信・吉川元春 30歳
小早川隆景 27歳
織田信長 26歳
島津義弘 25歳
佐々成政 24歳
豊臣秀吉 23歳
北条氏政・前田利家・本多正信 22歳
長宗我部元親 21歳
徳川家康 17歳
竹中半兵衛 16歳
山内一豊 15歳
武田勝頼・黒田官兵衛 14歳
真田昌幸 13歳
榊原康政・本田忠勝 12歳
毛利輝元 7歳
直江兼続 1歳
石田光成 誕生

1561年

福島正則

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出典:Wikipedia

秀吉子飼いの武将で本能寺の変で信長の死後に起こった賤ヶ岳の戦いにて活躍した賤ヶ岳の七本槍の1人。

秀吉家臣団きっての猛将として活躍。秀吉死後は文治派の石田三成らと対立し徳川家康に与して東軍として関ヶ原の戦いに参加した。

関ヶ原の戦い勝利後は毛利家の領地であった安芸・備後約150万石を拝領し広島城に入城して統治した。

しかし家康死後の1619年に台風によって破損した広島城の一部を修復したが、無断修復ということで武家諸法度違反を疑われ、安芸・備後150万国を没収させられた。

没収させた安芸・備後は浅野氏が拝領し、幕末で統治されていくことになります。

井伊直政

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出典:Wikipedia

徳川四天王や徳川三傑などに数えられる1人で、井伊の赤備えとしても知られる文武両道に長けた戦国武将。

家康の天下取りを献身的に支えた家臣として現在でも称えられている。

関ヶ原の戦いにて島津軍を追撃するも狙撃され大けがを負うが、関ヶ原の戦後処理と江戸幕府の基礎固めにまい進する。

毛利家や島津家をはじめ、長宗我部、真田昌幸・信繁(幸村)といった西軍に加担した多くの戦国武将の和平交渉・助命に尽力したとされる。

そのような活躍・貢献が認められ、石田三成の旧領である佐和山(現:彦根市(彦根藩))18万石を拝領する。家康が直政を彦根に配置した理由として、西国諸藩の抑えと有事の際に朝廷を保護があったとされその信頼度が伺えます。

しかし鉄砲傷による大怪我の療養もままならぬ中で戦後処理・幕府の基礎固めと多忙を極め無理したために薬石効なく関ヶ原での傷が元で42歳の若さで死去した。

その後は井伊家は明治時代になるまで彦根藩を統治。有名な子孫には幕末において安政の大獄を起こし、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼がいます。

1561年(永禄4年)時点の戦国武将年齢一覧

毛利元就 64歳
北条氏康 46歳
武田信玄 40歳
毛利隆元 38歳
明智光秀 33歳
上杉謙信・吉川元春 31歳
小早川隆景 28歳
織田信長 27歳
島津義弘 26歳
佐々成政 25歳
豊臣秀吉 24歳
北条氏政・前田利家・本多正信 23歳
長宗我部元親 22歳
徳川家康 18歳
竹中半兵衛 17歳
山内一豊 16歳
武田勝頼・黒田官兵衛 15歳
真田昌幸 14歳
榊原康政・本田忠勝 13歳
毛利輝元 8歳
直江兼続 2歳
石田光成 1歳
井伊直政・福島正則 誕生

1562年(永禄5年)

加藤清正

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出典:Wikipedia

秀吉子飼いの戦国武将で福島正則らと並ぶ、賤ヶ岳の七本槍の1人。

豊臣秀吉に従い各地を転戦し武功を上げ秀吉の天下取りを支え、九州攻めの後に肥後半国を拝領する。

秀吉が死去すると文治派の石田三成らと対立。徳川家康と親交を深めて関ヶ原の戦いでは東軍として参加し戦後その活躍が認められて肥後一国と豊後国の一部を拝領して熊本藩主となった。

藤堂高虎や黒田官兵衛と並んで築城の名手でもあったとされています。

北条氏直

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出典:Wikipedia

北条早雲からつづく北条家5代目にして最後の当主。5代目であるが実質的な権力は父であり4代目当主の北条氏政が握っていた。

本能寺の変び信長死去で混乱する武田旧領であった甲斐(山梨県)・信濃(長野県)に侵攻し領土拡大を進めた。

その後信長の跡を継いだ秀吉が天下をほぼ手中に収める中で、秀吉の上洛要請や天下惣無事令をことごとく無視し真田昌幸が納める城を攻めたことがきっかけで小田原城の戦いが起こる。

当初は大軍だと食糧がすぐに尽きることや、徳川家康や伊達政宗の援軍などが期待できたため、上杉謙信をも撤退された難攻不落の小田原城に立てこもり籠城策を取った。

しかし天下をほぼ手中に収めた秀吉は20万の大軍で進軍、支城を次々と攻略され完全に包囲されたばかりか石垣山に城を築く徹底抗戦の構えを取られました。

さらに伊達政宗が秀吉に降伏し、家康も援軍に来ないことを悟り和睦交渉の末開城。氏政は切腹、氏直は高野山へ幽閉され翌年病死した。

この戦いで北条家は滅亡、秀吉は天下統一を成し遂げることになりました。

1562年(永禄5年)時点の戦国武将年齢一覧

毛利元就 65歳
北条氏康 47歳
武田信玄 41歳
毛利隆元 39歳(※翌年の1563年に41歳で死去
明智光秀 34歳
上杉謙信・吉川元春 32歳
小早川隆景 29歳
織田信長 28歳
島津義弘 27歳
佐々成政 26歳
豊臣秀吉 25歳
北条氏政・前田利家・本多正信 24歳
長宗我部元親 23歳
徳川家康 19歳
竹中半兵衛 18歳
山内一豊 17歳
武田勝頼・黒田官兵衛 16歳
真田昌幸 15歳
榊原康政・本田忠勝 14歳
毛利輝元 9歳
直江兼続 3歳
石田光成 2歳
井伊直政・福島正則 1歳
北条氏直・加藤清正 誕生

1566年(永禄9年)

真田信之

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出典:Wikipedia

真田昌幸の長男で真田幸村(信繁)は実弟。

父・昌幸は真田家の三男であり武藤家に養子に出ていたため信之は武藤家の跡取りであった。

しかし長篠の戦いにて昌幸の兄で信之には叔父にあたる信綱・昌輝が揃って戦死したために昌幸が真田に復姓したために信之も真田家の跡取りとなった。

本能寺の変の信長死去によって武田家旧領で起きた混乱では父・昌幸に従って武功を上げる。

その後も昌幸に従って転戦し、豊臣秀吉に臣従後は秀吉の天下統一事業を助けた。

秀吉の死後、石田三成と徳川家康の対立が深まると、犬伏にて石田方につく父・弟と別れ信之は義父の本多忠勝に従い徳川家康に与した。

当時としては長生きで93歳まで生き太平の世となった江戸時代において貴重な戦国時代経験者であり、家康の十男・徳川頼宣は信之の事を非常に尊敬していたようです。

しかし30代ごろは頻繁に体調を崩しており、家督を譲っていた息子たちも早世してお家騒動に発展するなど決して順風満帆な老後ではなかった。

1566年(永禄9年)時点の戦国武将年齢一覧

毛利元就 69歳
北条氏康 51歳
武田信玄 45歳
明智光秀 38歳
上杉謙信・吉川元春 36歳
小早川隆景 33歳
織田信長 32歳
島津義弘 31歳
佐々成政 30歳
豊臣秀吉 29歳
北条氏政・前田利家・本多正信 28歳
長宗我部元親 27歳
徳川家康 23歳
竹中半兵衛 22歳
山内一豊 21歳
武田勝頼・黒田官兵衛 20歳
真田昌幸 19歳
榊原康政・本田忠勝 18歳
毛利輝元 13歳
直江兼続 7歳
石田光成 6歳
井伊直政・福島正則 5歳
北条氏直・加藤清正 4歳
真田信之 誕生

1567年(永禄10年)

伊達政宗

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出典:Wikipedia

アニメなどの効果などもあり現代で1,2を争うほど有名で人気のある戦国武将。

豊臣秀吉の小田原城侵攻に際して同盟関係であった北条家に援軍にいくか迷うが、結局豊臣秀吉に頭を下げて臣従を誓った。

秀吉の死後は徳川家康と近を通じ、最終的には仙台藩62万石になった。これは加賀・前田家、薩摩・島津家に次ぐ第3位の石高であったとされる。

江戸幕府3代将軍である徳川家光は伊達政宗を非常に尊敬しており、政宗死去に際して父の秀忠が亡くなった時以上に狼狽し嘆いたとされています。

真田幸村

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出典:Wikipedia

アニメなどの効果もあり現代では伊達政宗と並んで有名で人気な戦国武将。

真田昌幸の次男であり、実兄には信之がいます。

上杉の人質や豊臣家の人質と出されていたこともあります。特に秀吉は可愛がれたそうでその証拠に秀吉の馬廻衆に任命されたり、豊臣家のきっての知将・大谷吉継の娘を妻に迎えたりしています。

秀吉の死後は父・昌幸と共に石田三成に従い、犬伏にて徳川家康に従った信之を別れました。その後、第2次上田城の戦いでは徳川秀忠率いる徳川本隊を釘付けにして関ヶ原の戦いに遅参させる成果を上げる。

しかし裏切りなどもあって石田三成が関ヶ原の戦い敗戦すると、父共々降伏した。家康は当初、昌幸・幸村を死罪にするつもりであったが兄・信之をはじめ信之の義父・本多忠勝、井伊直政の必死の除名嘆願もあって命だけは助けられるが九度山に幽閉される。

14年の幽閉生活のあとに九度山を抜けだし大阪の陣に参戦。冬の陣にて真田丸を築き徳川勢を迎え撃った。しかし和平交渉の後、外堀内堀を埋められ真田丸も取り壊された状態で夏の陣に突入。

夏の陣では修羅の如く徳川本隊に突撃し、三方原の戦い以来2度目となる家康の馬印を倒す成果を上げ、家康を切腹寸前まで追い詰めるがあと一歩及ばずに戦死した。

1567年(永禄10年)時点の戦国武将年齢一覧

毛利元就 70歳
北条氏康 52歳
武田信玄 46歳
明智光秀 39歳
上杉謙信・吉川元春 37歳
小早川隆景 34歳
織田信長 33歳
島津義弘 32歳
佐々成政 31歳
豊臣秀吉 30歳
北条氏政・前田利家・本多正信 29歳
長宗我部元親 28歳
徳川家康 24歳
竹中半兵衛 23歳
山内一豊 22歳
武田勝頼・黒田官兵衛 21歳
真田昌幸 20歳
榊原康政・本田忠勝 19歳
毛利輝元 14歳
直江兼続 8歳
石田光成 7歳
井伊直政・福島正則 6歳
北条氏直・加藤清正 5歳
真田信之 1歳
真田幸村・伊達政宗 誕生

1568年(永禄11年)

黒田長政

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出典:Wikipedia

天才軍師と言われた黒田官兵衛の長男として誕生。

秀吉死後に起きた関ヶ原の戦いでは徳川家康側につき東軍として活躍。

父である官兵衛は長政を猪武者といっていたが、関ヶ原の戦いでは寝返りを交渉を請け負っており父譲りの調略で西軍の小早川秀秋や吉川広家を寝返えらせ東軍勝利の貢献した。

戦後は先ほどの活躍から子々孫々まで罪を免除するお墨付きをもらったばかりか、筑前国約52万石を拝領して福岡藩を設立させ初代藩主となり現在の福岡県の礎を築いた。

1568年(永禄11年)時点の戦国武将年齢一覧

毛利元就 73歳(※3年後の1571年に75歳で死去
北条氏康 53歳(※3年後の1571年に57歳で死去
武田信玄 47歳
明智光秀 40歳
上杉謙信・吉川元春 38歳
小早川隆景 35歳
織田信長 34歳
島津義弘 33歳
佐々成政 32歳
豊臣秀吉 31歳
北条氏政・前田利家・本多正信 30歳
長宗我部元親 29歳
徳川家康 25歳
竹中半兵衛 24歳
山内一豊 23歳
武田勝頼・黒田官兵衛 22歳
真田昌幸 21歳
榊原康政・本田忠勝 20歳
毛利輝元 15歳
直江兼続 9歳
石田光成 8歳
井伊直政・福島正則 7歳
北条氏直・加藤清正 6歳
真田信之 2歳
真田幸村・伊達政宗 1歳
黒田長政 誕生




1573年(元亀3年)

宇喜多秀家

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出典:Wikipedia

豊臣家・五大老の1人で宇喜多家当主となった幼少時から秀吉に重用された戦国武将。

秀吉死後は西軍として石田三成に与するも小早川秀秋の裏切りで大谷軍は壊滅、宇喜多軍は壊滅し西軍は徳川家康率いる東軍に敗北する。

宇喜多家は改易されるが、秀家は落ち武者狩りをその度にくぐり抜けて1655年(明暦元年)11月20日に84歳で死去した。

この時既に徳川幕府4代将軍・徳川家綱時代であったとされ、謝罪や助命嘆願で改易を免れたりした西軍の中心的武将の中では唯一逃げ切りに成功した人物でもあります。

1573年(元亀3年)時点の戦国武将年齢一覧

武田信玄 死去(52歳)
明智光秀 45歳
上杉謙信・吉川元春 43歳
小早川隆景 40歳
織田信長 39歳
島津義弘 38歳
佐々成政 37歳
豊臣秀吉 36歳
北条氏政・前田利家・本多正信 35歳
長宗我部元親 34歳
徳川家康 30歳
竹中半兵衛 29歳
山内一豊 28歳
武田勝頼・黒田官兵衛 27歳
真田昌幸 26歳
榊原康政・本田忠勝 25歳
毛利輝元 20歳
直江兼続 14歳
石田光成 13歳
井伊直政・福島正則 12歳
北条氏直・加藤清正 11歳
真田信之 7歳
真田幸村・伊達政宗 6歳
黒田長政 5歳
宇喜田秀家 誕生

1575年/長篠の戦い

武田信玄の死去から2年後の1575年は織田信長が人類史上はじめて鉄砲を大量を利用した戦である長篠の戦いが起きた年です。

当時火縄銃は射程距離が短く1度発砲すると装填して次の発射までに1~2分かかることからあまり重用されていなかった。

しかし信長はこの戦いで鉄砲隊を3隊列編成にして撃ったら次の列に変わって撃ち続けるという連射戦術を用いることで火縄銃の弱点克服・火力を最大限活用し当時最強と言われた武田軍を打ち破り勝利しました。

武田家は馬場信春をはじめ、真田信綱・昌輝など信玄時代からの子飼いの重臣たちを多く亡くし徐々に衰退していくことになります。

明智光秀 47歳
上杉謙信 45歳(※3年後の1578年に48歳で死去
吉川元春 45歳
小早川隆景 42歳
織田信長 41歳
島津義弘 40歳
佐々成政 39歳
豊臣秀吉 38歳
北条氏政・前田利家・本多正信 37歳
長宗我部元親 36歳
徳川家康 32歳
竹中半兵衛 31歳
山内一豊 30歳
武田勝頼・黒田官兵衛 29歳
真田昌幸 28歳
榊原康政・本田忠勝 27歳
毛利輝元 22歳
直江兼続 16歳
石田光成 15歳
井伊直政・福島正則 14歳
北条氏直・加藤清正 13歳
真田信之 9歳
真田幸村・伊達政宗 8歳
黒田長政 7歳
宇喜田秀家 2歳

1579年

徳川秀忠

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出典:Wikipedia

徳川家康の三男として誕生。

三男であり本来徳川家の後継者の地位ではなかったが、家康の長男・信康は謀反の疑いをかけられ信長の命で切腹、次男・秀康は豊臣家に養子に出されて結城家を継いだことから跡取り候補となる。

関ヶ原の戦いでは徳川本隊を率いる。

しかし真田昌幸・幸村親子に上田城で足止めを食らい、長雨によって家康の命令書の到着遅れ・進軍の遅れで徳川本隊が関ヶ原の戦いに遅参するという大失態を起こしてしまう。

しかし本多正信や榊原康政の尽力もあって、家康に許しをもらい1605年に家康の跡を継いで江戸幕府2代将軍となった。

初代将軍の家康や3代将軍の息子・家光と比べると知名度は低いが、家康の跡を継いで江戸幕府の支配を完全に確立・江戸の町づくりを行うなど礎を築きました。

1573年(元亀3年)時点の戦国武将年齢一覧

明智光秀 51歳
吉川元春 49歳
小早川隆景 46歳
織田信長 45歳
島津義弘 44歳
佐々成政 43歳
豊臣秀吉 42歳
北条氏政・前田利家・本多正信 41歳
長宗我部元親 40歳
徳川家康 36歳
竹中半兵衛 死去(35歳)
山内一豊 34歳
武田勝頼・黒田官兵衛 33歳
真田昌幸 32歳
榊原康政・本田忠勝 31歳
毛利輝元 26歳
直江兼続 20歳
石田光成 19歳
井伊直政・福島正則 18歳
北条氏直・加藤清正 17歳
真田信之 13歳
真田幸村・伊達政宗 12歳
黒田長政 11歳
宇喜田秀家 6歳
小早川秀秋 2歳
徳川秀忠 誕生




1582年(天正10年)/甲州征伐(天目山の戦い)・本能寺の変・中国大返し

武田信玄の死後から9年、長篠の戦いから7年後の1582年(天正10年)は日本を揺るがす大事件が相次いで起こりました。

まず戦国最強と言われた武田家が織田信長の甲州征伐によって滅亡したこと。

そして武田家を滅亡させたわずか3か月後には明智光秀によって本能寺の変が起き織田信長・信忠親子が死去し、その光秀もわずか11日後に中國大返しで戻ってきた豊臣秀吉に討ち取られました。

これにより織田家家臣団内部はもとより日本国内の勢力図が大きく変化。

甲斐・信濃周辺は混乱を極め、信長に攻められていた各地の戦国大名の中には滅亡の危機を免れたもの、秀吉に接近して秀吉政権下で重要されたもの、秀吉に反抗したものなど日本の転換期となった年です。

これによって信長が築いた地盤を受け継いだ秀吉は8年後の1590年に天下統一を成し遂げます。

ちなみに1582年時点で明智光秀は54歳、織田信長は48歳、豊臣秀吉は45歳でした。

小早川秀秋

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出典:Wikipedia

豊臣秀吉の正室である北政所の甥として誕生し、親戚であったことから豊臣親族として活躍していた。

秀吉の命で子のいなかった小早川隆景の養子となり、小早川秀秋と名乗るようになる。

関ヶ原の戦いでは西軍でありながら黒田長政と通じており、戦いも佳境に差し掛かった時に西軍を裏切り、大谷吉継次いで宇喜多秀家を攻撃し徳川家康率いる東軍の勝利に貢献し豊臣家衰退のきっかけをつくった。

戦後は宇喜多秀家の旧領であった備後・岡山城主となるが、関ヶ原の戦いからわずか2年後の1602年に20歳という若さで死去した。

1582年(天正10年)時点の戦国武将年齢一覧

明智光秀 山崎の戦いにて死去(54歳)
吉川元春 52歳
小早川隆景 49歳
織田信長 本能寺の変にて死去(48歳)
島津義弘 47歳
佐々成政 46歳
豊臣秀吉 45歳
北条氏政・前田利家・本多正信 44歳
長宗我部元親 43歳
徳川家康 39歳
山内一豊 37歳
武田勝頼 信長の甲州征伐(天目山の戦い)で討ち死(36歳)
黒田官兵衛 36歳
真田昌幸 35歳
榊原康政・本田忠勝 34歳
毛利輝元 29歳
直江兼続 23歳
石田光成 22歳
井伊直政・福島正則 21歳
北条氏直・加藤清正 20歳
真田信之 16歳
真田幸村・伊達政宗 15歳
黒田長政 14歳
宇喜田秀家 9歳
徳川秀忠 3歳
小早川秀秋 誕生

1584年(天正12年)/小牧・長久手の戦い

信長の地位を確立した豊臣秀吉は織田信長の3男・織田信雄に侵攻、その結果信雄より援軍要請を受けた徳川家康が参戦。これにより秀吉軍VS信雄・家康連合軍という図式で小牧・長久手の戦いが勃発しました。

結果は信雄が秀吉と停戦したため引き分けとなりましたが、家康は局地戦とはいえ秀吉に勝利。

本能寺の変後に天下統一を推し進める秀吉にとって後にも先にも負けたのはこの戦いだけであり、家康は唯一秀吉に勝利した相手ということになります。

家康の力を再認識した秀吉は力推しでは駄目だと判断し、以降は外交政策で家康を傘下に取り込もうとしたそうです。

1584年(天正12年)時点の戦国武将年齢一覧

吉川元春 54歳
小早川隆景 51歳
島津義弘 49歳
佐々成政 48歳
豊臣秀吉 47歳
北条氏政・前田利家・本多正信 46歳
長宗我部元親 45歳
徳川家康 41歳
山内一豊 39歳
黒田官兵衛 38歳
真田昌幸 37歳
榊原康政・本田忠勝 36歳
毛利輝元 31歳
直江兼続 25歳
石田光成 24歳
井伊直政・福島正則 23歳
北条氏直・加藤清正 22歳
真田信之 18歳
真田幸村・伊達政宗 17歳
黒田長政 16歳
宇喜田秀家 11歳
小早川秀秋 7歳
徳川秀忠 5歳
小早川隆景 2歳

1585年(天正13年)/四国攻め

信長の死後、いち早く裏切り者であった明智光秀を討ち後継者となった秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒し畿内の安定に成功。

その勢いで四国に侵攻し長宗我部家に勝利。

四国を平定し天下統一に向けてさらに邁進していくことになります。

1585年(天正13年)時点の戦国武将年齢一覧

吉川元春 55歳
小早川隆景 52歳
島津義弘 50歳
佐々成政 49歳
豊臣秀吉 48歳
北条氏政・前田利家・本多正信 47歳
長宗我部元親 46歳
徳川家康 42歳
山内一豊 40歳
黒田官兵衛 39歳
真田昌幸 38歳
榊原康政・本田忠勝 37歳
毛利輝元 32歳
直江兼続 26歳
石田光成 25歳
井伊直政・福島正則 24歳
北条氏直・加藤清正 23歳
真田信之 19歳
真田幸村・伊達政宗 18歳
黒田長政 17歳
宇喜田秀家 12歳
徳川秀忠 6歳
小早川秀秋 3歳

1586~87年/九州平定

発端は島津家に侵攻された大友家が豊臣秀吉に援軍を要請したことから始まる。

九州に援軍を送ろうとしていた当初は徳川家康が秀吉の軍門に下っておらず西と東から挟撃されると進退が危うくなることから自ら出陣出来なかった。

そのため黒田家や毛利家を先発隊として派遣。黒田官兵衛ら黒田軍と毛利輝元・小早川隆景・吉川元春といった毛利主力軍が九州にて活躍しました。

その間に秀吉は実母を人質に出すことで遂に家康を屈服させ東の懸念を無くすことに成功。

秀吉は豊臣本隊を率いて高らかに九州に侵攻し島津家に勝利。この結果により秀吉の敵は関東の北条家と東北の伊達政宗のみとなりました。

この戦で隠居し病の身ながら出陣していた毛利元就の次男にして毛利両川の一角であった吉川元春が陣中で病が悪化し死去、その長男・元長も病にかかり父・元春の後を追うように死去したそうです。

またこの九州の論功行賞の果てに佐々成政は死去することになります。

1586~87年(天正14~15年)時点の戦国武将年齢一覧

吉川元春 1586年の九州平定の陣中に死去(56歳)
小早川隆景 54歳
島津義弘 52歳
佐々成政 51歳(※翌年1588年に52歳で死去
豊臣秀吉 50歳
北条氏政・前田利家・本多正信 49歳
長宗我部元親 48歳
徳川家康 44歳
山内一豊 42歳
黒田官兵衛 41歳
真田昌幸 40歳
榊原康政・本田忠勝 39歳
毛利輝元 34歳
直江兼続 28歳
石田光成 27歳
井伊直政・福島正則 26歳
北条氏直・加藤清正 25歳
真田信之 21歳
真田幸村・伊達政宗 20歳
黒田長政 19歳
宇喜田秀家 14歳
小早川秀秋 10歳
徳川秀忠 8歳
小早川秀秋 5歳




1590年(天正18年)/小田原城の戦い・天下統一

1582年(天正10年)に本能寺の変で死去した信長を跡を継いだ豊臣秀吉。

秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼしたことで信長の支配権をほぼ手中に収めていました。また中国大返しで気脈を通じた毛利家とも親密な関係を強め中国地方を傘下に入れて掌握。

三河・遠江といった東海の覇者徳川家康も外交戦略で屈服させた秀吉は四国・九州も屈服させ信長の死後わずか5年で敵を北条・伊達のみとしほぼ天下を手中に収めました。

そして1590年に天下統一の総仕上げとして北条家を屈服させるために日本市場最大規模の20万の大軍を率いて小田原に侵攻しました。これが小田原城の戦いです。

結果として伊達政宗は秀吉に屈して軍門に下り圧倒的兵力差で北条家に勝利しついに天下統一を成し遂げました。

1590年(天正18年)時点の戦国武将年齢一覧

小早川隆景 57歳
島津義弘 55歳
豊臣秀吉 53歳
北条氏政 小田原城の戦いにて敗戦し切腹(52歳)
前田利家・本多正信 52歳
長宗我部元親 51歳
徳川家康 47歳
山内一豊 45歳
黒田官兵衛 44歳
真田昌幸 43歳
榊原康政・本田忠勝 42歳
毛利輝元 37歳
直江兼続 31歳
石田光成 30歳
井伊直政・福島正則 29歳
北条氏直 28歳(※翌年1591年に29歳で死去
加藤清正 28歳
真田信之 24歳
真田幸村・伊達政宗 23歳
黒田長政 22歳
宇喜田秀家 17歳
小早川秀秋 13歳
徳川秀忠 11歳
小早川秀秋 8歳

1593年(文禄2年)

豊臣秀頼

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出典:Wikipedia

豊臣秀吉の次男として誕生。母は淀殿。長男は既に早世していたために豊臣家の後継者となる。

長男が早世し嘆き悲しんでいた秀吉にとって誕生した世継ぎであってとても溺愛していたが、その秀吉は秀頼の将来を案じながら1598年秀頼が5歳の時に死去。

秀吉の死後、秀頼の後見として前田利家を指名するも利家も死去。その後関ヶ原の戦いにて石田三成ら豊臣恩顧の大名は死去か家康に臣従したことで豊臣家は衰退。

その後は一定の勢力は保っていたが、1614年の大阪冬の陣・1615年の大阪夏の陣にて徳川家に攻められて自刃。秀頼の自刃に伴って豊臣家は滅亡した。

1593年(文禄2年)時点の戦国武将年齢一覧

小早川隆景 60歳(※4年後の1597年に64歳で死去
島津義弘 58歳
豊臣秀吉 56歳
前田利家・本多正信 55歳
長宗我部元親 54歳
徳川家康 50歳
山内一豊 48歳
黒田官兵衛 47歳
真田昌幸 46歳
榊原康政・本田忠勝 45歳
毛利輝元 40歳
直江兼続 34歳
石田光成 33歳
井伊直政・福島正則 32歳
加藤清正 31歳
真田信之 27歳
真田幸村・伊達政宗 26歳
黒田長政 25歳
宇喜田秀家 20歳
小早川秀秋 16歳
徳川秀忠 14歳
小早川秀秋 11歳
豊臣秀頼 誕生

1598年(慶長3年)/天下人太閤秀吉死去

本能寺の変にて織田信長の横死後、頭角を現わし信長の地位と基盤を受け継ぎ天下人とて天下統一事業を達成した豊臣秀吉。

そのカリスマ性と天性の人たらしの力を存分に発揮し一癖も二癖もある各地の武将たちをまとめた彼も寄る年波を超えることはできず僅か5歳の子・豊臣秀頼の将来を案じながら1598年に62歳でこの世を去りました。

秀吉のカリスマ性で統率されていた家臣団は彼の死後、福島正則・加藤清正といった武断派と石田三成ら文治派の対立激化によって崩壊をはじめその対立に付け込んで勢力拡大を狙う徳川家康よってバラバラとなった結果、関ヶ原の戦い以降は家康の台頭を許し豊臣家は急速に衰退していくことになります。

1598年(慶長3年)時点の戦国武将年齢一覧

島津義弘 63歳
豊臣秀吉 死去(61歳)
前田利家 60歳(※翌年1599年に61歳で死去
本多正信 60歳
長宗我部元親 59歳(※翌年1599年に60歳で死去
徳川家康 55歳
山内一豊 53歳
黒田官兵衛 52歳
真田昌幸 51歳
榊原康政・本田忠勝 50歳
毛利輝元 45歳
直江兼続 39歳
石田光成 38歳
井伊直政・福島正則 37歳
加藤清正 36歳
真田信之 32歳
真田幸村・伊達政宗 31歳
黒田長政 30歳
宇喜田秀家 25歳
小早川秀秋 21歳
徳川秀忠 19歳
小早川秀秋 16歳
豊臣秀頼 5歳




1600年(慶長5年)/関ヶ原の戦い

発端は上杉征伐に徳川家康いか諸大名が出陣したことからはじまる。

家康が大阪を空けた機会に乗じて石田三成が挙兵。大阪城を掌握して上杉家と挟撃すべく進軍した。

しかし家康は福島正則や加藤清正など豊臣恩顧の大名を味方に引き込みこれを察して石田光成を迎え撃つべく転進。

関ケ原の地にて両軍は激突しました。これが関ヶ原の戦いです。

家康率いる東軍は秀忠率いる本隊が上田城で足止めをくらい長雨で進軍が遅れ遅参したことで不利となり、関ヶ原の布陣図を見ても三成率いる西軍が有利でした。

しかし家康が戦いの場を得意の野戦に持ち込んだことや西軍に与していた諸将の裏切りもあって三成率いる西軍を打ち破り家康は勝利。豊臣家の衰退と江戸幕府を開くきっかけとなりました。

1600年(慶長5年)時点の戦国武将年齢一覧

島津義弘 65歳
本多正信 62歳
徳川家康 57歳
山内一豊 55歳
黒田官兵衛 54歳
真田昌幸 53歳
榊原康政・本田忠勝 52歳
毛利輝元 47歳
直江兼続 41歳
石田三成 関ヶ原の戦いにて敗戦し切腹(40歳)
井伊直政 39歳(※2年後の1602年に41歳で死去
福島正則 39歳
加藤清正 38歳
真田信之 34歳
真田幸村・伊達政宗 33歳
黒田長政 32歳
宇喜田秀家 27歳
徳川秀忠 21歳
小早川秀秋 18歳(※2年後の1602年に20歳で死去
豊臣秀頼 7歳

1603年(慶長8年)/徳川家康征夷大将軍任命・江戸幕府誕生

1600年に石田三成率いる西軍を関ケ原の戦いで破った徳川家康は朝廷より征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開きました。

これが260年余りにわたって太平の世を築くことになる江戸幕府のはじまりです。

1603年(慶長8年)時点の戦国武将年齢一覧

島津義弘 68歳
本多正信 65歳
徳川家康 60歳
山内一豊 58歳
黒田官兵衛 57歳(※翌年1604年に58歳で死去
真田昌幸 56歳
榊原康政・本田忠勝 55歳
毛利輝元 47歳
直江兼続 44歳
福島正則 42歳
加藤清正 41歳
真田信之 37歳
真田幸村・伊達政宗 36歳
黒田長政 35歳
宇喜田秀家 30歳
徳川秀忠 24歳
豊臣秀頼 10歳

1605年(慶長10年)/徳川秀忠征夷大将軍任命・江戸幕府世襲確立

征夷大将軍として江戸に幕府を開き権勢を奮っていた徳川家康は3男・徳川秀忠に征夷大将軍を譲り江戸幕府の世襲制を確立し世の中に知らしめた。

将軍となった秀忠は江戸にて親政を執り行い幕府支配の基礎固めに着手、家康は大御所として駿府城に拠点を移し自身が死去する1616年まで秀忠との二頭政治を行いました。

1605年(慶長10年)時点の戦国武将年齢一覧

島津義弘 70歳
本多正信 67歳
徳川家康 62歳
山内一豊 死去(60歳)
真田昌幸 58歳(※6年後の1611年に64歳で死去
榊原康政 57歳(※翌年1606年に58歳で死去
本田忠勝 57歳(※5年後の1610年に62歳で死去
毛利輝元 49歳
直江兼続 46歳
福島正則 44歳
加藤清正 43歳(※6年後の1611年に死去
真田信之 39歳
真田幸村・伊達政宗 38歳
黒田長政 37歳
宇喜田秀家 32歳
徳川秀忠 26歳
豊臣秀頼 12歳

1615年(慶長20年)/大阪夏の陣・豊臣家滅亡・戦国時代終結

応仁の乱以降各地で戦乱が相次いだ戦国時代最後の戦いが徳川家康と豊臣秀頼の間で起きた大阪夏の陣です。

1614年に起きた大阪冬の陣終結に際して大阪城の外堀・内堀とあらゆる堀を埋め立て、南側の出城であった真田丸を打ち壊された。大阪城は丸裸となり豊臣家は劣勢の状態で徳川軍を迎え撃つこととなりました。

しかし予想を反して毛利勝永が奮戦し真田幸村が徳川本陣に突撃。家康は三方ヶ原の戦い以来の屈辱である馬印を倒され自刃一歩まで追い詰められましたが結果的にこの戦いに勝利。

豊臣家を滅亡させ戦国時代に終止符を打ち江戸幕府の支配体制を完全に確立。以後260年余りの太平の世の礎を築き上げました。

1615年(慶長20年)時点の戦国武将年齢一覧

島津義弘 80歳
本多正信 77歳
徳川家康 72歳
毛利輝元 59歳
直江兼続 56歳
福島正則 54歳
真田信之 49歳
真田幸村 大阪夏の陣にて討ち死(48歳)
伊達政宗 48歳
黒田長政 47歳
宇喜田秀家 42歳
徳川秀忠 36歳
豊臣秀頼 大阪夏の陣にて自刃(22歳)

今日の記事:まとめると意外と楽しいですね

いかがでしたでしょうか。

大河ドラマなどでは主人公とその周辺の大名しか登場しませんし、登場しても年齢などは不明瞭ですがこうやってまとめてみると意外に年の差があったりと面白い結果になりました。

1615年の大阪夏の陣では有名な武将のほとんどが死去したか、高齢なのも戦国時代終焉を感じることができますね。

別記事ではこの記事の前半として初代戦国武将・北条早雲と戦国時代を終焉させ約260年の太平の世を築いた徳川家康までを現記事同様に年功序列形式でまとめているのでご覧ください。

群雄割拠の戦国時代!有名な戦国武将の生まれ年と同時期に生きたライバルの年齢を時系列でまとめてみたよ♪

2019.09.24

最後までお読みいただきありがとうございます。

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